6月28日 門徒総会が行われました
2015-06-29
6月28日午後1時30分より、門徒総会を開催しました。
出席人数が148人となりましたので、寺則6条11号ー4により開催を宣言。
議長に川西長行氏を選出し、以下の議案をそれぞれ慎重審議戴いた結果、全ての提案事項につき、全員一致のご賛同を得ましたので、此処にご報告申します。
提出議案
①平成26年度事業報告 ・・・・ 承認
②平成26年度会計報告 ・・・・ 承認
③同上・監査報告 ・・・・ 承認
④平成27年度事業計画 ・・・・ 承認
⑤平成27年度予算案 ・・・・ 承認
⑥役員一部変更 ・・・・ 承認
②および⑤については、送付いたしました資料をご参照ください。
吉村会長より、年度ごとの単純な保全ではなく長期的な計画が必要であると、当寺が進むべき道筋や姿勢をご教示いただき、総会参加者一同、明るい未来の表示に大いに啓蒙されました。
永代経法要
2015-06-28
今年は都合により、6月22日、23日に永代経法要をつとめることになりました。
永代経とは、末長くお経が読まれるという意味で、
み教えがますます盛んになるようにとの思いからつとめられる法要です。
世間一般で言う「永代供養」のように死者に追善供養する意味ではなく、
亡き人を縁として、お寺に参詣し故人を追慕するとともに、 縁のあるお寺が永代続き、末代までみ教えが伝わるように、お寺の護持に参加し、
自分自身が聞法のご縁をいただく機会でもあります。
当寺では年に1度、6月21日、22日に、
中尊前(ご本尊の前)に全御門徒の法名(過去帳)を飾り、お勤めします。
み教えを私に伝えて下さったご先祖の遺徳を偲び、
何より私自身が聞法に励んで、
子や孫が代々にわたってみ教えを聞き慶ぶことが、「永代経」なのです。
6月22日、23日 永代経法要を行いました
2015-06-23
6月22日、23日 永代経法要を行いました。
永代経とは、末長くお経が読まれるという意味で、
み教えがますます盛んになるようにとの思いからつとめられる法要です。
当寺の永代経では、中尊前(御本尊の前)に全御門徒の法名(過去帳)を飾らせていただきます。
22日 午前9時30分より 本堂にて正信偈のお勤め、
富山教区 光円寺住職 深海正樹師よりご法話をいただきました。
午後1時30分からは、当寺前住職七回忌、前々坊守二十七回忌を併修させていただきました。
お参りいただいた方に記念品として、
讃仏偈、重誓偈、十二礼、正信偈(書き下し文)のCD(もしくはテープ)を謹呈いたしました。
無量寿経のお勤めの後、引き続き深海先生からご法話をいただきました。
23日は、午前は正信偈(書き下し文)のお勤め、
午後からは観無量寿経をお勤めしました。
~ご法話より~
生まれてきた意味
それをあきらかにされたのが親鸞聖人です。
生まれてきたら、100%死ぬ
生死一如
生と死は表裏一体
新潟の宗教学者 金子大栄先生は
死とは生の意義をあきらかにすること
と仰いました。
生死にとどまることなく
生死に終わることなく
生死を超えていく
私には、帰っていく世界がある
待っていてくださる世界がある
帰るところがあってよかった
生~死とは、放浪、流転している
それが、その時に
南無阿弥陀仏に遇う
仏のはたらきに遇う
仏に遇う
遇うとは思いがけずあうこと
私を招いてくださっている
召喚
南無阿弥陀仏
呼び戻す・呼びかえす
私の心をゆりうごかす
他力によるいただいた信心
死というと、「浄土」とばかり思うが
浄土へ行く因は生の間にある
往生には四つある
一、正念往生 念仏しながら息切れる
二、意念往生 浄土を思いながら息切れる
三、無記往生 黙って静かに息切れる
四、狂乱往生 苦しみながら息切れる
しかし、臨終のよしあしによって浄土参りが決まるわけではない
信心定まる時、往生また定まる
龍谷大学教授の言葉より~
人は去っても言葉は残る
人は去ってもぬくもりは残る
人は去っても合わす手の中にかえってくる
6月16日 おわらを奉納いたしました
2015-06-16
6月16日、聞名寺本堂にて聞名寺風の盆講中によるおわらを奉納させていただきました。
今月より毎月16日、親鸞聖人の御命日に合わせ、風の盆講を行うことになりました。
午後2時より、本堂にて重誓偈のお勤め、住職の法話の後、
聞名寺風の盆講中によるおわら奉納を行いました。
~法話より~
お釈迦様は誕生してすぐに、七歩歩み、天と地を指さし
天上天下唯我独尊
と仰いました。
私という存在は、私というこの命は、この世の中でただひとつしかない、尊い存在である
あなたはあなたのかけがえのなさ、自己存在の意味やありがたさに気づいていますか?
そのことに気づきなさいというのが、仏教です。
では、この命をどう生きていけばいいのか?
お釈迦様は御臨終の前、これから何をたよりに生きていけばよいかと悲しむ弟子たちに仰いました。
自灯明
法灯明
自らをともしびとし、
仏法をともしびにしなさい
自分の人生は、自分の命は自分にしか生きられない
姿かたちのあるものはいつか必ず消えてしまう
そのようなたよりないものを心の支えにするのではなく、
永遠に変わらないもの、仏教の教えを人生の中心に据えて、正しく生きていきなさい
では、正しく生きるとはどういうことなのか?
それは4つのことをあきらかにして、8つの正しい道を行きなさい。
次回7月16日より、四諦八正道について副住職が毎回少しづつお話ししていきたいと思います。
6月14日 定例法座を行いました
2015-06-15
6月14日に定例法座を行いました。
午前9時半より聞名寺仏間にて
教行信証の勤行
北海道教区 西教寺住職 吉村善充先生よりご法話をいただきました。
午後1時半より
正信偈(書き下し文)の勤行
引き続き吉村先生よりお話をいただきました。
~法話より~
願わくばこの功徳を以て
平等に一切を施し
同じく菩提心を発して
安楽国に往生せん
願以此功徳
平等施一切
同発菩提心
往生安楽国の
善導大師の『観経四帖疏』「玄義分」のはじめにあらわされた『帰三宝偈』の結びの語です。
ともなる救い(自利利他)を願う仏教に精神を表明し、読経、 勤行の終わりにつとめる「回向文」です。
回向とは回施趣向の略で
自分の得た徳を他の人にもわけてあげるという意味です。
一般に回向とは、修行や読経の功徳を他者にめぐらしたり、死者への追善供養などの意味に受け取られ、
回向文もそのためにつとめるものと理解されている向きもありますが、
浄土真宗では、回向とは如来のはたらきであり
私たち衆生を、必ず浄土へ生まれさせようとはたらく、如来の意(こころ)であります。
回向とは、自分が生み出したもの(はたらき)ではありませんし、
ましてや勤行の終わりの合図でもありません。
至心回向というは、至心は真実という言葉なり、真実は阿弥陀如来のお心なり。
回向は本願の名号をもって十方の衆生に与えたもうた実なり。
(一念多念文意より)
(インドの言葉) (日本の言葉でいうと)
仏 ブツ = 如来
如来とは、真如来生(真実の世界から生まれ来て下さった方)
この人間の世界は偽りの世界ですよ。
真実の世界はこちらですよ。
真実の世界でじっとしていられなくなり、
こちらの世界に生まれ来て下さった。
苦しんでいる私たちと目線を合わせようと、この世界へ来て下さった。
前門様の著書『愚の力』の中にこのようなことがありました。
そのままのお救いといいますが、
そのままの私でいいなら、自己反省は必要ないのでしょうか?
阿弥陀様の目からすれば
このままの私では駄目だから
今のままの私では危なくて放っておけないから
修行も善行も中途半端
そのことにも気づけない私だから
だからこその阿弥陀様の救いなのです。
けっして、居直ってはいけない。
慚愧することで喜びが開けてくるのです。