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秋季彼岸法座を行いました

2014-09-23
秋彼岸のお中日にあたる9月23日(火)秋分の日に、秋季彼岸法座を聞名寺本堂にて行いました。
 
午前のお勤めは9時30分より
 
「正信偈」
 和讃
 「宝林宝樹微妙音 自然清和の伎楽にて 哀婉雅亮すぐれたり 清浄楽を帰命せよ」
 「七宝樹林くににみつ 光耀たがいにかがやけり 華菓枝葉またおなじ 本願功徳樹を帰命せよ」
 「清風宝樹をふくときは いつつの音聲いだしつつ 宮商和して自然なり 清浄薫を礼すべし」
 「一一の花の中よりは 三十六百千億の 光明照らしてほがらかに 到らぬところはさらになし」
 「一一の花の中よりは 三十六百千億の 佛心も光もひとしくて 相好金山のごとくなり」
 「相好ごとに百千の 光を十方にはなちてぞ つねに妙法ときひろめ 衆生を佛道にいらしむる」
 
その後、富山教区 専龍寺 御住職様よりご法話をいただきました。
 
午後は13時30分より
 
「重誓偈」
 
その後、余間の御堂行の法名軸、当寺でお預かりしている町のお講の法名軸の尊前にて
 
「阿弥陀経」をお勤めさせていただき、
 
引き続き、専龍寺御住職よりご法話をいただきました。
 
 
 
~ご法話より~
 
無常の世の中と言います。
 
しかし
 
私のことだと思えない
 
私もそうだと気づけない
 
どうして人として生まれてきたのか
 
命について考えない自分であった
 
お彼岸はそんな自分に気づかせていただく期間
 
自分が目覚めていく期間です。
 
 
私の命は私のものだといえるでしょうか?
 
私の命は私が作った命ではなく
 
いただいた命なのです
 
私にたどり着くまでの命の数は
 
十代さかのぼると1024
 
二十代さかのぼると100万をこえ
 
三十代さかのぼれば1億をこえます
 
この命があったから私がいる
 
大きな大きな命
 
そのいただいた命を私が生きているのです
 
 
「あたりまえ」の反対語は「ありがたい」
 
有ることが難しいから「有り難い」
 
現代は「あたりまえ」を多くしようとして発展していきました。
 
 あたりまえにご飯を食べられるようになりたい
 
 あたりまえに学校へ行って勉強したい
 
今は「あたりまえ」で生活をしている
 
しかし老いていくと
 
今までできていたことができなくなる
 
あたりまえだったことができなくなる
 
老いとは、あたりまえをなくしていくことなのかもしれません。
 
命をいただいたこと
 
人として生まれさせていただいたこと
 
今こうしてここにいること
 
「あたりまえ」が「あたりまえじゃなかった」と気づいた時、
 
はじめて「ありがたい」ことだと思わせていただける。
 
 
「おかげさま」の反対語は「おひさま」
 
私の目は何でも見えているわけではない
 
私の耳は何でも聞こえているわけではない
 
私は何でも知っているわけではない
 
「かげ」とは私の見えていない部分
 
私の知らないところで、力をかしてくれている人がいる
 
おかげさまで
 
有難うございます
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